有限会社ハレノヒ 高野 昌宏

5月 5, 2019
飲食
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有限会社ハレノヒ(https://www.rangmang.com/)

有限会社ハレノヒ(https://www.rangmang.com/

「世界の食卓をハレノヒに」をミッションに掲げ、らんまん食堂、魅惑の七輪らんまんなどらんまんブランド直営店を10店舗展開(2017年8月現在)。
関東を中心に、名古屋、シンガポールまで出店を加速させている。
世界に認知される「日本の食文化」を発信する食と文化のエンターテイメント企業を目指す。

本日インタビューさせていただいたシャチョー

高野 昌宏 さま

1971年生まれ。福島県出身。神奈川大学経済学部卒業。
有限会社ハレノヒ 代表取締役。日本レモンサワー協会 会長。
コラーゲン鍋、半熟カステラ、唐揚げ&レモンサワーなど次々とヒットメニューを生み出すアイデアマンとしても知られ、数々の食ブームを牽引してきた。

本日はお時間頂戴しましてありがとうございます。

高野社長、先日らんまん食堂で唐揚げいただきました。ジューシーで美味しかったです。唐揚げに何か思い入れがあるんですか?

「はい、俺カーネルサンダースになると思ってるんで」

このパンチの効いた一言から始まったこのインタビュー、

果たして高野社長は、なぜカーネルサンダースになろうと思ったのか。。。

1、上京、そして飲食店でのアルバイト

起業するまでの経緯について、まずはお話伺えますか?

はい、もともと福島県出身で、大学から東京にでてきました。理由は特にないんですけど、東京って何か楽しそうじゃないですか?

そうは言っても、遊んでばかりだと生活できないので、飲食店でバイトし始めました。最初はこの生活が永遠と続けばいいのに、と思うくらい遊びとバイトの繰り返しでした。

2、家族からの反対、そして就職

結局その生活から抜け出せず、大学を卒業してフリーターに。毎日が本当に刺激的で楽しかったですが、当然家族からは心配され、最終的には、居酒屋を多店舗展開している会社に就職しました。

当時は労働基準法も甘かったので、1日16時間くらい働くこともありましたね。でも日々楽しく、初任給も結構よかったので、充実はしていましたよ。

そんな中、昇進の話がありましたが、渋谷から離れたくなかったので、辞めました。相談もしていなかったので、当時の彼女に『あなたと一緒だと将来が見えない』と、振られました。あの日は、雨が降っていましたね、、、

まさしく「レイニーブルー」です(笑)

3、起業準備、そして念願の起業へ

まあ、また出直しだ!と心を入れかえ、次は近くにあったホルモン焼屋さんで働くことにしました。実はここのお店が、この『魅惑の七輪らんまん』1号店のベースとなっているお店です。16席しかないのに月商300万円近くあり、僕がいたときの最高売上が月商450万円です。すごいですよね!お店は外国人2名と僕の3人で回していました。味はおいしかった。でも肉を切ることは僕でもできるし、焼肉屋にはフレンチみたいに繊細な能力は必要ないですよ。『これ、俺でもできるんじゃないの?』とその時思いました。これが独立を考えた初めての瞬間です。独立を意識すると働き方も変わるし、毎日勉強できてすごく楽しかった。『将来が見えてきたな!』という感覚になりましたし、『俺は30歳で自分の店を出して社長になる!』と。それが25歳のときです。運命の出会いですよね。

そのあとは、繁盛店のノウハウを習得するために都内の別のホルモン焼屋さんに移って、独立のためにお肉の仕入れ先から仕入れ値、タレの作り方などあらゆることを習得しました。これはもうスパイみないなものですよね(笑)。

とにかく、出店に関することは全て学びたい、という一心でした。オペレーションを学ぶために自由が丘の大繁盛店で働いたり、独立後の集客を見据えて、自らの名刺をお客さんに『僕、30歳になったら、お店出すので絶対に来てください』と言い渡し続けたり、と。当時は必死だったので、思いつくことは何でもしましたよ。

その甲斐あって、30歳になった翌年の6月1日に中目黒に1号店である『魅惑の七輪らんまん中目黒店』をオープンしました。僕の誕生日が5月なので31歳になってしまいましたが。

4、創業直後の天国から一転、売上げ0の地獄へ

オープン後、事業は順調に進んでいたんですか?

はい、一号店を出店後、バイト時代の営業活動の成果もあり、芸能関係の方を中心にお店は利益を生み出せていました。しかしながら、頼りにしていた芸能関係の方のご来店がなくなり、売上が大きく減少しました。地獄ですよね。

でも、当時の常連さんいろいろと助言をいただき改善しながら、できることはすべてやりました。その甲斐もあってお店は着実に好転し、取材までしていただけるようになりました。ラッキーなことに、その取材していただいた記事がきっかけで、見違えるように売上が上がっていきました。

5、震災で得た教訓。カーネルサンダースに、おれはなるっ!

2店舗目の『魅惑の七輪らんまん』を展開していく中で、次の展開を模索していました。自社の領域である、肉とシナジーのあるものから辿っていくと、ハンバーガー、ドーナッツ、牛丼どれをとっても競合が複数いるのに、なぜかフライドチキンはケンタッキー・フライド・チキンの一人勝ち。そこにビジネスチャンスを感じました。

であれば、「おれがカーネルサンダースになろう」と。そういった意気込みで恵比寿にお店をオープンしました。

確かにフライドチキンはケンタッキー・フライド・チキンの一人勝ちですよね。恵比寿のお店はオープン後順調に展開されていたんですか?

いろいろありましたよ。オープンして間もなくして東日本大震災がありました。ちょうどその時、パートの催事出展のために大量に仕入れたお肉を運んでいたときに。結構揺れたなあと思い、テレビをつけると石巻市や気仙沼市が通常ではありえない状況になっていました。もう日本終わったなと思いました。家族のことが心配になり電話をしましたが、連絡がとれず。最終的に連絡がとれ、家族の無事を確認できときはホッとしました。でも当然のごとく催事は中止。手元には大量のお肉の在庫。魅惑の七輪らんまんの借金もまだ残っていて、この恵比寿店を頼りにしていて、俺の人生もう終わりだと思いました。

被災地の悲惨な状況を目の当たりにして、自分の中で価値観が変わりました。社会に貢献したいという気持ちが芽生えてきたんですよ。となりにあるスーパーに行けば、棚はすっからかん。お米も何もありませんでした。その中で、世の中の役に立ちたいと思い、在庫の鶏肉を使って、650円で昼も夜もからあげ定食を販売しました。お子様からご年配の方まで多くの方にご来店いただきました。それがらんまん食堂の始まりです。からあげはイタリアンとかフレンチみたいにかっこよくないし、おしゃれじゃないけど、本当に困ったときに、おしゃれな食べ物でなく、からあげのような、なじみのある食べ物を求めて来てくれるし、幅広い層のお客様に満腹になって幸せを感じていただくことができるし。人間の本質がそこにあり、これが僕の目指すべき方向だと思ったんですよ。震災にたくさんのことを教えられました。

確かにから揚げだと幅広い層の方に長く愛されそうですね。

ブームはすぐに過ぎ去るし、やりすぎてもやっぱり潰されるんだなと思います。利益が少しでてれば、会社として存続できるしそれで十分だなあと。2番手、3番手くらいでも、下手すれば4番手くらいでも、やるっていうことが大事なのかなあと思います。細長く継続する商売。これが僕の商売のスタンスです。派手に目立つというよりは、振り返ったらそこにはお店があるみたいに、地域の人に愛される、身近なお店を展開したいと思っています。

6、苦労した分、幸せは大きい

この記事を読んでいる経営者になりたい方へアドバイスをお願いします。

アドバイスですか。難しいですね。特にアドバイスすることはないですが(笑)でも、ひとつ言うとすれば、苦労したほうがいいと思います。

苦労した分、一筋の希望の光が見えたときの快感、喜びはとても大きなものになります。人間生きていれば、不安で押しつぶされそうなことや、自分ではどうしようもないことがたくさんあります。

そういった状況でも、腐らずに前に進んでいくことで、何かを掴んだ時はとても幸せな気持ちになります。ハッピーです。

自分自身、あまり自信はないですし、本当に社長をやっていいのか、とも考えることもあります。でも敢えて自分に負荷をかけ、それを超えたときに見える光が、癖になります。経営者の醍醐味はそこにあるのかなあと思います。

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